VOL6 KATATA YOSHIHITO DESIGN 堅田さん

 

9月中盤戦となり、だいぶ過ごしやすくなってきましたね! 涼しくなる世間とは相反してどんどん熱を上げて行く、「情熱ある若者大陸」 満を持しての「第6弾」です!

三条市は、金属製品や加工部品の「ものづくり」を継承する世界でも数少ない地域です。その三条市にて、「ものづくりを通して三条市の発展に寄与する拠点となることを目指す」ことを目的に、廃校を利用して作られた「三条ものづくり学校」が昨年オープンしました。

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そんな「三条ものづくり学校」の一室にて今回お話しをお聞きしたのは、25歳で「ものづくり」を学びたいと大阪から縁もゆかりもない燕三条にやってこられた、プロダクトデザイナーの堅田佳一さん。「ものづくり」の仕事に対する考え方、移住8年目となる燕三条への想いなど、様々なお話しをお聞きしました。

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齋藤 お仕事はどのような内容になりますでしょうか?

堅田 仕事は一応<プロダクトを中心としたデザイン事務所>をしてます。個人事業主ですね。

齋藤 個人事業主になられてどれくらいですか?

堅田 7月で3年目です。それまでは燕市のメーカーに勤務していました。新潟に来てということで言うと8年目になりますね。

齋藤 元々ご出身はどちらでしょうか?

堅田 元々生まれは大阪ですね、いま実家は兵庫県です。

齋藤 では、新潟に来たきっかけっていうのはどのようなことだったんでしょうか?

堅田 大学が理工学部物理学科で、親父も同じようなデザインの仕事をしてまして、学生時代にデザインやりたいなと思って、大学選ぶときにもその選択肢はあったんですが…親父に反対されまして(笑)結局、大学卒業した後にデザイン事務所に入社して、大阪のデザイン事務所に入って・・・大学3回生の時からのバイトを含めると5年ぐらい働いてました。そこで自分自身が「ものづくり」を知らないことに気づいてしまったんです。大手の家電メーカーなんかの仕事もしてきたんですけど、一体自分がやってる作業が製品ができるまでのどの立ち位置の作業なのかとか、どれくらいその製品に対して貢献しているのかとか、そういうのが見えなかったんで、このままじゃちょっとマズいなと思って。ものが作られてお客さんに渡るまで0から10まであるとすれば、その全てに、なるべく長く付き合える産地。そういう場所に行きたいと思って、それで燕三条を選びました。

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齋藤 なるほど。では「燕三条」をどうやって知って、どうやって選ばれたんでしょうか?

堅田 自分の中にはいろんな選択肢があって、「ものづくり」というキーワードで言えば例えば大阪だったら東大阪だってある。他にもキーワードで引っかかる産地と呼ばれるところはいっぱいあって、当然選択肢の中にはありました。あったんですけど、部品仕事だけだったり、結局自社であるいは産地で商品として完結できなかったりとか、あと海外で作って日本で組合わせるだけとか。あとこれは来てから再認識したんですけど、大手メーカーさんと下請けさん、というか加工屋さん協力会社さんとの上下関係がキツすぎるというか、そういうのがちょっとおかしい関係なんじゃないかと思い、そうやって削っていくといろんな場所が候補からは外れましたね。

齋藤 「ものづくり」深い部分ですね。

堅田  あとは僕、こっちに来て「刃物メーカーに」入るんですけど、刃物なんてまさにそうで、戦う舞台が日本じゃなくて世界。しかも世界をリードしている産業かどうかっていうのも選択には大きく影響しました。その辺を考えるとあまり他に選択肢がなかったんです。あと、製法や素材の自由度がなかったりするんですよね。そんな中、燕三条、もしくは括りを少し大きくして「新潟」って括りにすると、「木」「金属」「樹脂」「布」となんでも使えるんですよね。触れないのって「ガラス」と「陶器」ぐらいになるんですかね?いや、それすらもあるかもしれません。

齋藤  新潟括りで結構出てくるもんですね。

堅田  そうなんです。そんな視点で、自分の事を考えた時に、いろんな材料や加工方法があるっていうのはすごく魅力的で、選択肢として残ったという事です。縁もゆかりもなかったですし、知り合いもゼロでした。東京より北に行く事も人生初でしたけど…当時の自分としては現状に対する「危機感」しかなかったんで。

齋藤 大阪にいて色々調べている中で、新潟含めて、燕三条っていう地域に対してどのようなイメージを持っていましたか?

堅田 正直、大阪にいた時は、そこまで特別に何かってわけではなかったですね。僕はこの土地に来て「ものづくり」を教えてもらって、「燕三条式デザイン」を教えてもらった。そこに対しては割とニュートラルに燕三条に入ってると思います。だから「どうしても燕三条に行きたい!」という訳ではなくて、選択肢の中から削っていったら残ったのが「燕三条だ」ったっていうわけなんです。

齋藤 縁もゆかりも無い燕三条にどうやって飛び込んで来られたんですか?

堅田 その時自分としては、自分の思い描いていた先…例えば10年とかでこうなりたいなっていうのになるために、とても今の状況じゃマズいっていう「危機感」ですかね。

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齋藤 大阪で働きながら?

堅田 そうですね、「ものづくり」…例えばモノを作ってて、自分がこうだと思って絵を描いたりとか、3Dで起こしたりして、でもそれがどのように扱われているかは企業さん次第。結果採用されたり、採用されなかったり。採用されなかった理由もわからないし、ホントに「どこが問題だったのか、どのくらいのズレなのか」って、わかんないんですよ。そうなると、答えのない方程式を解かされているという感覚で、今になって振り返れば、その当時家電メーカーさんとかはインハウスデザイナーさんが充分にいて、そのデザイナーさんに無いアイディアを得るために外にお願いしたりする事が多くて、そのアイディアさえあれば、もう1回社内でブラッシュアップしたりするんですよね。

齋藤 気の遠くなるような作業・・・。

堅田 それが当時僕にはわかんなくて。またデザインって意味でも、僕以外に働いている方はかなりベテランだったので危機感は大きくなっていく一方で。ものづくりのプロセスに関しても…例えば樹脂を成型する時にどういう方法があるかとか、どういう事に気を付けなきゃいけないかとか、絶対的な知識量も足りなかったんです。でもそれを本で勉強したってわかんないんで、現場行きたいけど、自分が住んでる近くに求める現場は無かった。それを見る為に海外に行くのも違う話だし、そういう風なのが自分の身の回りで行なわれている場所に行かなくてはいけないと思ったんです。

齋藤 そんな時に、縁もゆかりも無い燕三条にそのようなアクション、行動を取られたんでしょうか?

堅田 その時に自分の繋がりとか伝手でいろんな選択肢の中で燕三条の企業さんがあったのでそれでお話しして。当時そこの社長も人材を探していて「お前がやりたい事をしたらいい」と(笑)。かなり心の広い社長だったんで、ホント垣根無く燕三条を動き回って走り回って、社長にご迷惑をおかけする。みたいなそんな事が幾度もありましたね。

齋藤 大阪時代にその会社行きたいと思って、電話でアタックしたんですか?

堅田 元々その会社もそういう人材を探していて、そこがマッチングしたという事ですね。

齋藤 それはどなたか紹介者がいたわけではなく?

堅田 紹介者がいたわけではなく。また僕、他にもいろいろそういうのを探していたので、神奈川とか仙台とか。当然大阪もそうだし、地元も…兵庫県もそうだし。そういう選択肢の中からあらゆる条件をクリアしているところっていう事で。

齋藤 いわゆる「採用募集」を見て行動を起こしたわけではなかったということなんですね?

堅田 そうなりますね。

齋藤 なるほど…じゃあ「いいな」と思っていた企業と「欲しいな」って思っていた人材…それが堅田さんで、それがマッチしたから「じゃあ来てくれ」「行きます」って感じだったんですね。

堅田 それが8年前…25歳の時ですね。

齋藤 今おいくつでいらっしゃるんですか?

堅田 32歳です。

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齋藤 8年前、25歳の時はその社長を唯一「一本頼り」にして単身でいらっしゃったって事ですよね、・・・希望、不安、一番最初にいらっしゃったその時の思いを伺いたいです。

堅田 正直、下見もあったので何回か来てたんですよ。実際どういう街かも調べたし、いろんな方に聞く機会もあったんで、基本的に当時不安はなくて…今考えたらよく来たなとは思うんですけど、あの時の決断が今の自分を作り上げてくれてるんだとすると、「よく決断してくれたな」と思ってます(笑)

齋藤 なるほど(笑)

堅田 なので特にホントに不安も無くて、さっき言った「危機感」しかなかったので、何か変えなきゃいけない・・・と。でも元々は3年で帰るつもりだったんですよ。「ものづくり」勉強して、大阪に帰って、もう一回それをベースにやろうと思ったんですけども。

齋藤 大阪で学べない事を3年間勉強・修行という気持ちで、と思っていたという事ですよね。

堅田 そうですね。でも、大阪よりも可能性を感じてしまったので、いろんな部分で可愛がってももらいましたし、「ものづくり」についてイチから教えてもらったので。

齋藤 その「刃物メーカー」で?

堅田 はい、でもホントに「刃物屋さんで刃物の勉強をする」というよりも、金属の加工の仕方から金型の勉強から、樹脂の勉強から、あらゆることを勉強させてもらいました。実は勝手にやっちゃった部分もあるんですけども、それを許容してもらったんです。木工も樹脂の金型のことも、現場を走り回りながら職人さんに教わりながら勉強しました。

齋藤 いらっしゃる前にイメージしていた燕三条と、実際住んで働いてみた燕三条と、違いはあります?例えば「こんなイメージで来たけども全然違ってた」みたいなことってありましたか?良い部分とか悪い部分とか。例えば新潟は「お米」のイメージですが、燕三条はラーメンのイメージが実際強いとか(笑)

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堅田 あー、ラーメンは、僕としてはラーメン好きだと思って燕三条に来たんですけど、周りの人が好き過ぎて、自分はそんなに好きじゃなかったんだなって思いました(笑)

齋藤 あははは(笑)燕三条の人たちのラーメン熱がすごすぎたんですね!

堅田 「いや、僕そんなにラーメン語れないっすわ~」みたいな(笑)…割と好きだと思ってたんですけどね。あと、雪国のイメージだったんですよ、すごい雪が降るってイメージで。皆さんは「いやいや燕三条はそんなに雪降らないですよ~」って仰ってたんですけど…やっぱり僕らの「降る」と、こっちの人の「降る」は違うんですよ~。いやいやガッツリ降ってますって!みたいな(笑)

齋藤 こっち側の人間からすると、いわゆる雪国って1m、2m…地域で言うと十日町とか魚沼とかのイメージですけど、僕らにしてみると「降らない方だよ」っていうのが30cmとか40cmのレベルなんですよね。大阪なんてホントに降らないですよね。

堅田 年に1回チラチラと。積もる事無いんで。それはちょっとびっくりしましたね。あと…言葉はちょっと難しかったとこがありましたね。燕三条で言うと、年配の職人さんとかとお話する時は、結構キツかったっすね…「はい、はい…」しか言えなかった(笑)

齋藤 だいぶ分かるようになりましたか?

堅田 今でも、ご年配の方は厳しいですね(笑)話を戻しますねあと、道が赤い事とか(笑)これは結構ビックリしましたね。あと、素材が美味しいのに割と味が濃いとか、信号が縦とか、あと…東京への距離感の近さ。時間にしたら大阪-東京間も2時間半ぐらいで新潟-東京間もそれぐらいなんですけど、ほぼほぼ行かないんですよね、東京に。でも今は月1、2では(東京に)絶対行ってますし、東京への距離感はすごく近いなって感じます。

齋藤 それは物理的というよりは精神的な距離ということですか?

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堅田 はい、全然その・・・距離があるって感覚が無いって言うか、色々アプローチするのにやりやすい。東京に対して精神的に嫌いとかはないので、ちょっと「距離」は東京と大阪であったんですけども、新潟に来ると全然それが無くなったなぁって感じです。そういう意味でやりやすさはあります。

齋藤 では、こちらに来られてお仕事をされていく中で例えば燕三条の土地柄や人柄において、悩まれたり苦労したことはありますか?

堅田 燕三条の人たちは、向こうから来てくれる事はほとんどないんですけど、僕自身は自分から行く事に抵抗無いんで、自分から行くとすごい親身になって考えてくれますし、色んなこと教えてくれるし、すごい協力してくれるっていうのはあったんで、そこはすごく助かりました。

齋藤 結構内気なんですかね。(笑)

堅田 もう一つは自分としては全然そこに拘りは無いんですけど「デザイナー」って職業が嫌いな人が多かったです。(笑)じゃあデザイナーじゃなく好きに呼んで下さいって話はしてるんですけど、デザイナーと呼ばれる職業が嫌いなんだろうなっていうのが目に見えて分かるというか、デザイナーっていうと顔色変わったりとかってのは割とあって。

齋藤 へぇ~意外でした。

堅田 話を聴くと、自分たちの先代の人たち。決してそれを否定するわけじゃないですけど、結果的にそのやり方がまずかったわけですよね。それで結局加工屋さんやメーカーさんにとってメリットのある答えを出してこなかった。デザイナーさんだけがやりたい事をやっているというスタンスだったんだと思います。そういう事をたくさん見てきて自分はこうなっちゃけないと思ったんで、燕三条に「ものづくり」教えてもらうにつれて燕三条式のデザイナーになっていきましたね。

齋藤 燕三条のものづくりに育ててもらったような感じでしょうかね。

堅田 結局その人たちが潤わなきゃ、その人たちのメリットになる。作り方も含めて、そういうデザインにしなきゃ全然意味無いんです。「ものづくりの現場」を理解している、現場にしっかり入り込める。加工屋さんと話しながら製品を仕上げていくなど、そこで自分なりの仕事の仕方を見つけることができたと思ってます。自分としては、形だけにこだわったデザインや、スーパーデザイナーさんに作ってほしいっていう仕事は全部、東京のデザイナーさんにお願いしていただければいいと思ってます。

齋藤 なるほど。深いですね!

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堅田 自分は、ここの土地にいてメーカーさんとお話して、メリットのある商品、ブランド作りであるとかを造りこんで行く事が出来ることが強みなので、そこが東京のデザイナーさんとの違いです。そこを最大限生かしていきたいです。それが、燕三条に育ててもらった恩返しかなと。

齋藤 それは誰かに教えてもらったというよりかは、堅田さん自身がお仕事の中で身につけられて行ったということなんでしょうね。

堅田 はい。今、プロダクトデザインの一環でオープンファクトリーの工場作ったりしてます。実例を上げるとマルナオさんのクリエイティブディレクターをやってます。百貨店さんの店舗の設えや、合同展示会のブースデザインだったり。仕事の始まりはプロダクトデザインがスタートだったのが広がっています。

齋藤 すごいですね。店舗もやってるんです。

堅田 他にも第一食品販売さんの山田寛子さん。たぶん、JCの卒業生だったと思うんですけど・・・一緒にアイスクリーム考えたりしてるんですよ(笑)考え方はアイスクリームも工場も同じなんです。必要なことは何なのかとか、課題は何なのかとか、その現状の課題を解決するためにどうしていくのかっていう考え方から始めるんです。それはあらゆるものをデザインする上で同じ。全部僕一人でやるわけではないですが、結果、仕事の幅をこのまちのおかげで広かったとも考えられますね。

マルナオ㈱    http://www.marunao.com/

燕三条JC2013年卒業 福田隆宏先輩

㈱第一食品販売  http://www.daiichisyokuhin.com/

燕三条JC2009年卒業 山田寛子先輩

齋藤 それでは、3年で帰るつもりでいらっしゃったのに、3年で帰らなかった理由を教えてくださいますか。

堅田 居心地がよかったっていうのもあります(笑)。クリエイティブな人間にとって新潟っていう土地って、海も山も川もあって、美しい自然があって、四季がはっきりしていて、もう割と日本で残ってるところとしては少ない場所ですよね。冬も雪降るし、夏も暑いし、海あるし、春は桜が咲いて、秋は紅葉や食べ物美味しくて。そういう意味でも居心地が良かったし、自然からいろんなものを受け取るのにもたぶん良いんだろうなと思ってというところはありますね。それがすべてでは無いんですけどね(笑)

齋藤 中でも「燕三条」という地域は本当によい資源が多くあるって良く聞きます。

堅田 ですよね。地元に・・・地元を捨てるって気は全然無いんですけど、地元よりも全然「可能性」があったんですよ。その行政の動きのひとつもやっぱりすごく前向きだし、いわゆる・・全然役所っぽくなかったり。三条市とか。燕市はそこまで深くお付き合い無いんで少ししかわからないんですけど、三条市はそう感じます。

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齋藤 具体的には?

堅田 商工課ですかね。あとは地場産とか、あと行政の括りじゃなくても、組合というか青年部、商工会議所とか、その辺の組合もそれぞれ自分たちで発信してるし。

齋藤 堅田さん自身はどこかに所属されてるんですか?

堅田 いや、してないですね。

齋藤 なるほど。いわゆる「お付き合い」の中でってことですね。

堅田 そうですね。直近でいうと、三条の商工会議所の方々と一緒にパリに行きました。展示会だったんですけど、ブースとか全部やらせてもらったんです。それをやる時も、企画の「じゃあこれって何の目的なの?」って入り口の話の段階から一緒に入ってやらせてもらって、皆さんの話を聞きながら具体的な戦略練って、デザインして、施工としっかり詰めれたので、会場でずば抜けて目立ってました!大盛況でしたし、目的に対しても結果に繋がりましたし、展示会の特徴上、イミテーションが多かった中、一箇所だけリアルで(笑)

~堅田さんが手がけたブース例「NIIGATAFACTORY2」~

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齋藤 さすがですね。

堅田 戦略を持って挑めていた行政が他になかったんですよ。京都市とかむちゃくちゃ大きいスペースで動線も最高でしたけど、設えや仕掛けは、手前味噌ですが完全に勝ってましたからね。 他の産地と比べて行政や組合のパワーが全然違うし、そういうメリットは感じます。そこを頼るわけじゃないですけど、今帰ったとして、今を超えるバックアップとか、自分をフォローしてくれる環境なんて無いので、自分の実力では到底帰える事はできないし、なんとか燕三条に恩返ししなければいけないという思いもあります。

齋藤 恩返しですか。

堅田 ですね。実際、従業員時代(前職の刃物メーカーで)本当に自由を与えてもらって「お前がやりたいなら」ってことで色んな事をやらせてもらいました。いろんな会社さんを動かしながら商品を作っていく中で、協力会社さんの方で、「実はこういう案件があるんだけどどう思う?」とか「この商品について解決方法無い?」とかお話を聞くようになって、自分としても「こうなのにな」とか「こことここを繋げたら解決するのにな」とか、結構出てきてしまって、そこを自分のわがままで会社に「そこもやらせてくれ!」って言うのはちょっと筋違いだし、今までそれだけ投資してくれて、自分を買ってくれた社長にそんな失礼はできない。一切不満も無かったし、恩しか無いんですけど話をしたら、「それは確かに他の従業員のメンツもある。じゃあ出て、自分で色々やっていればいい」って事で独立したんです。

齋藤 (前職の刃物メーカーでは)ほぼ社長との関係性でやられてたってことですよね。

堅田 そうですね。でも従業員さん、職人のみなさんには本当にかわいがってもらったし、怒られながら勉強させてもらいました。自分自身、苦労っていう苦労ってしてなくて、本当に周りに恵まれてたんですよね。ホントに自分だけ特別なんじゃないかってぐらい周りに恵まれてました。

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齋藤 それは、サポートして下さる方が周りに多かったという事でしょうか?

堅田 本当にそうだと思います。結局今あるのも恵まれてたんだなぁって思います。自分としてどうっていうよりも、周りの人たちのフォローしかないんですよね。

齋藤 独立後も含めて、ピンチな状況を乗り越えたなどのエピソードはありますか?

堅田 これだけ金かけたのに振り出しに戻るしかないとか、色々あります。もちろんピンチもありました。商品を開発するのは自分の仕事。自分が諦めたらすべてが終わりじゃないですか。だから、せめて一人でも諦めないでやろうって。社長とかストップ掛けたら止めますけど、自分としてはこういう課題が残ってそれを解決するためにやる。だからピンチというか、大変なことってのは当然あるんですけど、それが仕事だし、自分が諦めるということだけは絶対やらないって決めてましたね。皆さん当然あると思うんですけどね(笑)

齋藤 いわゆる「挫折」みたいな事は、こちらに来てから無かったですか?

堅田 挫折は常にありました。振り出しに戻ることもあれば、自分としてやりたい事がやれなかったりとか。A案、B案あって、自分はA案を押しているが、B案で進めるってことになった。それはA案を十分に伝えられなかった自分の力不足ですし、B案を全力でやるって風に切り替えるしかない。そこは本当に一切拘りなくスッと切り替えます。自分の力の及ばない部分にこだわるより、自分で変えることができる部分をとことん追求する方がいいと思う性格なんです。(笑)

齋藤 元々、独立を考えていたのでしょうか?独立が目標だったとか…?

堅田 最初に来ることを決めた時に、せっかくいろんな商品とか素材、製法があるところに来るんだから、いろんな事をしてみたいなと。その時に独立するかなんていうのはわからなかったですね。

齋藤 燕三条にいらっしゃった時に考えていた夢とか目標とかありますか?

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堅田 やっぱり「ものづくり」をしっかり勉強したい!ってとこですね。それが目的ですし、あとは自分の今の仕事とも重なりますが、商品が仕上がる0から10まで、可能な限りすべての行程に自分が関わっていこうと思っています。今もやっていますし、もっと作り方にも入り込んでいます。原価計算もやっています。製造改善だってやってる。そういう意味では、デザインという職種の中でそういう事が出来るのは燕三条に来たからできたし、皆さんに鍛えてもらった事。なので燕三条にとって使いやすい人間になれてるんじゃないかなと思っています。

齋藤 その目標を達成できたのは刃物メーカーにいる時ですか?独立してからですか?

堅田 刃物メーカーにいた時は生産現場にタッチもしたし、「それじゃできない」っていう事も経験して、金型を修正しようから始まった事もあります。金型屋さん行って打合せするので金型の勉強もしましたし。いろいろ勉強した結果、販売でお客さんにお話しするってとこまで行けたし、そういう事では、刃物メーカーにいた時にもう感じてましたね。

齋藤 ありがとうございます。ではまた別の質問をです。このまちに来て「良かった点」はたくさん伺えたのですが、逆に「不便に思う事」や「ここだけはまだ馴染めない」とか思われることはありますか?

堅田 生活の面で言うと当初はいっぱいありました、例えば交通の不便さとか。あとはどうなんだろう、活気?(笑) 夜静かだし(笑)あと結構・・・ここは言葉すごい選びますけど…「内向きな方」が多い気がします。皆さんが皆さんではないですけど、割とこう、マイナスなのかなっていう風に感じたりもしました。

齋藤 それはお仕事で感じましたか?それともプライベートや、地域的に感じることですか?

堅田 お仕事では全く2つに分かれます。僕がお付き合いする会社さんとかでも、そういう会社さんはお願いする事が少なくなっていっちゃいますよね、新しい事に消極的な人とか。・・・

齋藤 やっぱりあるんですねぇ。

堅田 そうですね。8年前だとたくさんあったと思うんですけど・・・どうかな「うどんが美味しくない」とか(笑)割とうどん文化なんですよ。蕎麦の方が美味しいんでもう蕎麦食べるようになったんで全然それは大丈夫なんですけどね。

齋藤 新潟はあんまりうどんが無いですねぇ

堅田 そうなんですよ!無いんですよ!でもお蕎麦めっちゃ美味しいじゃないですか。だからもうお蕎麦ガンガン食ってるんで、全然困ったことは無くなったし。

齋藤 確かに関西の方は「うどん」ですよね…「うどん屋」ってこのあたりじゃ聞かないですよね。

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堅田 あと最近の課題なんですが、自分がお付き合いしている会社さんも含めてピックアップされている会社さんが固定化されちゃってる感じはしています。人も、ブランドも。企業も。次をもっと探していったらいろんなものが出てくると思うんですが、まだまだピックアップできてないんじゃないかなぁって思います。今、色んな所が「そこ」に頼りっきりになっていて、新しく見つけ出したりとかっていう動きに注力してないんじゃないかって思います。

齋藤 仰ることはよく理解できます。「燕三条と言えば?」と言われるような代表企業ばかりが目立っていて、規模が小さくても素晴らしい会社はたくさんありそうなのに、ってことですよね。どの講演会でもお呼びする方が同じだったりすることが自然と多くなってしまったり・・・

堅田 そうなんですよね、物事には両面、いや6面くらいあって、いろんな方向から物事を見るべきだし、知るべきだと思うんです。もう少し万遍なく色んな人の話を聞くべきだし、「人」の選択肢も、何かを新しくするっていう時に「じゃあこの枠組みでやりましょう」っていうのが固定化されているような気がします。そういう意味で「内向き」って話をしたんですけど、もっと「いろんな人」を入れた方が良いと思うし、外からの人。新潟でも東京でも大阪でもそれこそ海外でも良いんです。そうやってグルグル回した方が良いんじゃないかなって思います。自分も今後そういう動きはしていこうと思います。燕三条のピックアップされる企業さん自身も・・・でも、それはベースとして事業所さんが「なりたい」と思わなきゃならない。そういう会社さんがあるかどうか「なりたい」と思っている人がいるかどうかが一番大事なんですけどね。

齋藤 堅田さんから見て、その可能性を持つ会社はありますか?

堅田 あります。しっかり柱を持っている会社さん。もう一つ自分たちのオリジナルで柱立てれば、いろいろ可能性あるんじゃないかなみたいな会社さんは結構あると思います。でも「自分たちで売らなくてもいい」というのも、それで良い仕事だと思います。問屋さんや商社さんに流通をお任せして全国に売ってもらうというのもすごく大きな会社を支える仕事になります。「自分たちでブランド作って売っていく」事が決して正解ではないとは思いますが、とは言え、事業所さんがどうしたいかが一番大事ですからね・・・。

齋藤 それも「内気」なんでしょうかね。

堅田 どうでしょうかね(笑)。こないだもここでブランディングの話をしていたんですけど、結局事業所さんがどうなりたいかが一番大事で、僕らの仕事はたぶんそれに対して背中を押す事だったりすると思っています。

齋藤 ありがとうございます。急にすみません。堅田さん、いま独身でいらっしゃいますか?

堅田 はい。

齋藤 今後、結婚やお子さんがという事を考えた時に、燕三条という環境をどうお感じですか?

堅田 でも子どもにとっては良いんじゃないでしょうか、楽しそうですし。

齋藤 楽しそう、というのは?

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堅田 僕、小さい時にこんな地面が揺れるほど音する街じゃなかったし、ボルトとかナットとかが道に落ちてるような環境じゃなかったので。本当はダメなんでしょうけど、いろんな人に話を聞くと小さい時に工場に忍び込んで怒られたとか。そういう、身近にモノが作れる環境があったり、機械に触れれる環境…触っちゃダメなんでしょうけどね(笑)そういった環境があると僕みたいな職業の人は将来向いてると思います。あと、自分の子供に同じ仕事をしてほしいとは思ってないですが、ただ楽しいだろうなーって思います。田んぼも自然もいっぱいあるし、せかせかした生き方をしなきゃいけない訳でも無いので(笑)

齋藤 僕は大学以降13年東京にいまして、田舎の人間が都会に出ると…都会は便利だけど、結婚・子供は、自分の育った田舎がいいなと思ってしまうんですよ。逆に都会の方にそう思ってもらえる事は嬉しいことです。

堅田 (大阪は)別に嫌いじゃないし、全然その楽しいところだし、料理も割と合うし(笑)ホントにこっちの方が楽しいだろうなって気はします。子どもが大きくなって19、20歳とかで憧れて東京に行くってのは全然いいんですけど、ただ小さい時はいろんな所を走り回った方がいいなーと思いますよね。

齋藤 田舎にいると・・・なかなか良さに気づけないんですよね。子どもの頃は都会に憧れました、不便ですし。新潟の人間は、僕の実感ですと半分新潟に残って半分東京に行く感じかなぁ…関西に行く事はあまりないですが・・・。

堅田 ちょうど僕らの年代の人が新潟にはいないです。もう3年、4年したら帰ってくるんでしょうかね(笑)ちょうどそこが抜けてるんですよね。

齋藤 30歳という節目か、結婚を機に帰ってくる人が多いと思います。僕も31で帰って来ました。

堅田 よくお客さんとも話すんですが、商品が売られている最前線は東京ですけど、モノが作られてる最前線は「ここ」なんですよね。だからこそ「ここ」にいる価値がある、自分にとってはね。

齋藤 その「最前線」というイメージは地元民には無いのかもしれないですね。携わっている方々はそういう想いかもしれないけど、僕なんかは全く違う業界の人間なので、燕三条が「ものづくり」の最前線であるという意識は無いと思います。・・・そう思っている燕三条人、新潟人がどれだけいるかなーって思います。だからこそそういった声をこの「情熱ある若者大陸」でもっと知って欲しいですね(笑)

堅田 今、国の関係する仕事をしてるんですけど、いろんな産地の方が集まって来ていて東京で話したりしてて、「燕三条」は一目置かれている感じはしますね。

齋藤 へぇ!そうなんですか!

堅田 はい。工場の祭典に来たりとか、普通に工場廻ったりとかしに来るって聞きますし、前にもお話しましたが、事業所さんレベルでいわゆる小さな企業がしっかりと世界で勝負してるんです。しかもたくさんの企業が。なので、行政や組合にもノウハウが残ってそして行政がそれをまた活用するというように、「燕三条」は国のそれと比べても十分勝ててるくらい世界でとのつながりがある。しかも懐深いものづくりの産地なんです。

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齋藤 燕三条が「ものづくり」の最前線であるっていうことは、もっと広めていくべきことなんですよね?

堅田 シャイだからですかね!(笑)でもわかる気がするんですよね。僕も少し前までそういう所があって、黙ってても認められるくらいにならないと半人前的な、日本男児的な…でももう今は半人前で良いかなって思ってます(笑)

齋藤 そうですよね(笑)新潟ってよく「PR下手」って言われるんですけど、わかりやすく言うと米とか酒とか魚とか、素材がいっぱいあって、それが上手くPRできてないのでしょうね。

堅田 「全体で」の魅力なんですよね、「一番」じゃないんですよ、それが辛いところ。お米もたぶん北海道の方が多いですよね。日本酒も生産量では兵庫県だし・・・「1位」じゃなくて「全体で」なんです。でも「燕三条のものづくり」であれば「1位」になれるんじゃないかって。他の産地、例えば非鉄系の金属の鋳物で成り立ってる「高岡」とか革製品とか、ホントに産地って言われると製法と素材が決められてるんですね。でも燕三条は、過去の話になりますが「これ」を持ってきて「これと同じの作って」っていう所から始まってるんで、「なんでも」作れちゃうんですね。昔は模倣して作っていたというのがベースにあるんで。色んな作り方。鍛造もできるし、鋳造もできる。プレスもあるし。金属だけでも色んな作り方がある。非鉄系、鉄系、触れるものもあって、そういう意味では特殊で懐の深い産地だと思うんです、そこが僕にとって最大の魅力だし。だからこそ何をもって1位とするかですけど・・・なれるんじゃないかなーって。

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齋藤 非常に良いお話しですね、ありがとうございます。それでは今、やりたい事や今後の夢はありますか?

堅田 この産地ってスペシャリストが多いんです。なので自分の特性を生かして、スペシャリストたちの「横串を通す」ような仕事をして、自分は「ジェネラリスト」でありたいなぁって。スペシャリストではなくて、あらゆる事を全部ある程度を知った上で、「この件について深く知るにはこの人に聞けばいい」という「スペシャリスト」を常に自分の中で更新していく。いろんな人にお話を聞きながら、例えば「こことここを掛け合わせると」みたいな仕事をしていきたいと思います。

齋藤 人と人、プロとプロ繋げていくというイメージですかね。

堅田 プロダクトデザインもそうだし、デザインという仕事の成せる技だと思うんです。そういうことをやるから商材というものにこだわりがなく、展示会のブース作ったりとか、アイスクリーム作ったりとか(笑)色んなことを通して、仕事をしていきたいと思っています。もちろん事業者さん毎に課題は違ってるんで、無理矢理引っ付けるわけではなくて、各事業所さんたちの課題を解決するために引っ付け、協力体制を作って、お互いにとってしっかりメリットのあるような作り込みをやるっていうイメージですかね。

齋藤 そういう意味で堅田さんは「職業はなんですか?」って聞かれたら、なんと答えますか?

堅田 うーん。結構最近難しくて(笑)でもそういうのがデザイナーの仕事なんですって言っちゃってますけどね。でもディレクションやったりとかプロデュースやったりとか今はしてるので「こういうのもしてますよ」とも言いますね。

齋藤 一般的な「デザイナー」のイメージよりも、枠を超えて活動なさっているということでしょうか?

堅田 そうですね、燕三条に必要とされて育ててもらったものですね。自分として「そうなりたい」というよりも、物事を円滑に進めるため、解決するためにどういう動きをしていったらいいかを考えた時に、どんどんそっちに近づいていって求められてるのは「一般的なデザイナー」じゃなくて、「ディレクション・プロデュースのできるデザイナー」ていうのが答えだったでしたね。

齋藤 このまちに変えてもらった感じですかね。

堅田 そうですね。元々は「ものを造る」事が好きだったし、「ものづくり」の0から10まで関わりたいと思ったら、やっぱりデザイナーの仕事だと3~4ぐらいの関わり方なんですよね。それを「全部」という風に幅広くしたときに、やっぱりこういう風な仕事ができなきゃなという事になってきて、そっちに自然にシフトしていったというのが経緯ですね。

齋藤 もしかして、出てくる場所が燕三条じゃなかったらこうなってなかったかもしれないってことですよね。

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堅田 そうですね、それにデザインという仕事すらしてなかったかもしれないです。

齋藤 なるほど、そういう意味だと燕三条を選ばれたっていうのは本当に・・・

堅田 「あの時よく選んだな」って感じなんですよ(笑)

齋藤 ありがとうございます!(笑)では最後に質問させて頂きます。燕三条の未来を切り拓く力になるために必要な「力」はなんだと思いますか?

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堅田  ↓の動画をごらんください(笑)


このまちの境遇が育んだ新しいデザイナーとしての形。このまちだからこそ得られるモノ。それが燕三条の面白いところなんですね!

さて、それでは「燕三条」が育んだプロダクトデザイナー堅田氏の作品を紹介致します!

 「ORIGAMI」 なんと「1枚の金属」から作られている「包丁」スゲー!

「脇差」 新しい「和テイストのテーブルナイフ」ネーミングも素敵です!

「デニムカトラリーセット」デニム生地に包まれた、木製カトラリー!

 

【情熱ある若者大陸】オリジナルページへ(動画あり)

 

*LINK*

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